×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

承久の乱後も続いた「三浦氏」「和田氏」の血脈

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」③

■上野和田氏や佐久間氏となり戦国時代以降も活躍した「和田氏」

 

和田義盛
源頼朝の挙兵に際し三浦義澄とともに活躍し侍所別当に。泉親衡の乱に息子2人と甥が連座し、甥の胤長だけが許されなかったことが和田合戦へ繋がった。
国立国会図書館蔵

 和田氏は、三浦義明の孫義盛が相模国三浦郡和田を本拠として、和田氏を名乗ったものである。つまり、三浦氏の一族ということになる。

 

 当初から北条氏とは協調しており、ともに比企氏を滅ぼすとともに、2代将軍源頼家から北条氏の追討を命じられたときにも、北条氏に味方して頼家を排除している。

 

 しかし、健暦3年(1213)、北条氏排斥計画に加わったとして子の義直(よしなお)や甥の胤長(たねなが)が処罰されたことを不服として挙兵する。このいわゆる和田合戦において一族は殺されてしまっている。

 

 義盛の嫡男常盛(つねもり)は、和田合戦で自害に追い込まれたが、常盛の子のうち三浦義明の三男義春(よしはる)の子佐久間家村(さくまいえむら)の養子となっていた朝盛(とももり)は逃れることができた。しかし、承久の乱で後鳥羽上皇方について没落し、幕府方についた朝盛の子家盛(いえもり)が尾張国愛知郡御器所(ごきそ)に恩賞を与えられている。こうして、尾張に移り住んだ子孫が尾張佐久間氏となり、戦国時代には佐久間盛政(もりまさ)や佐久間信盛(のぶもり)が、織田信長の重臣として活躍している。

 

 義盛の三男朝比奈義秀(あさひなよしひで)は、和田合戦で奮戦したのち、逃亡したらしい。義秀の子孫は、やがて駿河の今川氏に仕え、今川氏の没落後は徳川家康に従い、江戸時代には幕臣となっている。

 

 義盛の六男義信(よしのぶ)は和田合戦で討ち死にするが、義信の子は逃れることができて、子孫は上野国(こうずけのくに)に落ち延びたという。そして戦国時代には上野和田城の城主になったというが、確実な史料からは確認できない。それはともかく和田城主の和田氏は、上野守護となった関東管領(かんれい)上杉氏に従うが、最終的には北条氏に帰服したため、小田原攻めで没落している。

 

 義盛の末子は、杉本義国といい、和田合戦から逃れて近江に蟄居(ちっきょ)したという。そして、三浦氏の一族である杉本氏という由来から、苗字を杉浦に改めたと伝わっている。杉浦氏はその一族が三河に移って松平氏に仕え、江戸時代には幕臣となった。

 

 義盛の弟義茂(よしもち)の子高井重茂(たかいしげもち)は、和田合戦において北条氏に味方したため、越後国の奥山荘を安堵されている。その子孫がのちに和田氏に復姓すると、三浦和田氏・越後和田氏とよばれる武士団を形成していく。戦国時代には嫡流が中条氏、庶流が羽黒氏や黒川氏などとして越後守護上杉氏に臣従している。

 

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』202212月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)

KEYWORDS:

過去記事

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。